昨日、身延山の奥之院を訪れました。少し霞んではいたものの、ケーブルカーで上がった頂上からは、富士山の姿を望むことができ、澄んだ春の光が山をやわらかく包んでいました。

そのまま受付でご開帳の申し込みを済ませ、奥之院の本堂へ。静寂に満ちた堂内で、ご開帳の儀式に立ち会うご縁をいただきました。お坊さんとともに、「自我偈」と「お題目」を、私はただ何も考えずに無心で声を重ねていました。意味を追うこともなく、自分を整える意識もなく、与えられた祈りの言葉に、静かに身をゆだねていたように思います。

お経が終わったあと、お坊さんは私の唱える姿をご覧になっていたようで、「感謝の気持ちがにじみ出ていました」と、静かに声をかけてくださいました。その後の会話の中で語ってくださったのが、「知恩報恩(ちおんほうおん)」という言葉でした。奥之院の額にも掲げられていたこの言葉が、そのとき、まっすぐに私の心に入り込んできました。

「知恩報恩」とは、恩を知り、その恩に報いること。この1年ほど、私は少しずつ、「自分は多くの人や出来事に支えられて生きてきたのだ」と“恩に気づく”意識が芽生えてきていました。それでも、“恩に報いる”という視点は、これまでの自分にはありませんでした。
不思議なことに、奥之院を訪れたその前日、私は64歳の誕生日を迎えていました。その節目を越えた翌日に、「知恩報恩」という言葉と出会ったことには、何か魂の成長のためのようなものを感じずにはいられません。恩に気づくだけではなく、報いて生きるということ。それが、これからの私の人生に与えられたテーマなのだと、静かに、けれど確かに思えたのです。
私はこれまで、約8年間にわたってルドルフ・シュタイナーの思想を学ぶ勉強会に参加しています。その中で繰り返し語られていたひとつに、「自分に向かってくるすべてのものに感謝の念をもって接する」という教えがあります。これは“神秘修行の条件”のひとつとされ、日々の出会いや出来事――喜びだけでなく、苦しみや葛藤までも――魂の成長をうながす大切な機会として受けとめていく生き方です。今回奥之院で「知恩報恩」という言葉に出会ったとき、私はこのシュタイナーの教えと、仏教における祈りの精神が、自分の中で重なるのを感じました。
さらに思ったのは、日蓮宗における「妙法蓮華経」の実践もまた、宇宙の法を深く認識し、それに従って生きることです。これはこの前日の身延山久遠寺での朝のお勤めの法話で別のお坊さんが話されていました。

それは、シュタイナーの言う「高次世界の認識」と重なる姿勢です。信仰と霊的学び――言葉や伝統は違っていても、その根に流れているものは、とてもよく似ていると感じています。
「知恩報恩」――この言葉は、私にとってただの美しい教えではありません。これからを生きるための“指針”であり、“魂の約束”のようなものです。これまでいただいてきた数々の恩に、少しずつでも応えていけるように。私自身の経験や学びを、いま誰かが必要としている場所へと届けられるように。
その思いを胸に、今行っている、就活・転職・副業支援、採用・人事やAI活用の支援など、個人や組織に伴走する仕事をしていきます。それもまた、私なりの報恩のかたちです。
祈りとは、ただ声に出して唱えることではなく、生きることそのものなのだと、昨日、奥之院で実感しました。無心で唱えた祈りの中で出会った「知恩報恩」。それは、これからの私の歩みを照らす静かな灯火となりました。一日一日を、感謝とともに。そして誰かのために、静かに応えていけるように。この言葉を胸に、私は「あなたの背中をそっと押す応援者」として歩み続けます。
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